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人と人の関係性を、瞬時に把握する
バーテンダーのご法度。その一つが、再び来店した客の名前を忘れてしまうことだろう。林さんはそんな時、どうしているのか。
「これって、すごく苦しい時間ですよね。例えば田中角栄が名前を忘れた時は、君の名前は何だったかと聞き、『○○です』と苗字を答えたら『いや下の名前だよ』と返していた、といいます。でも、実際はそれって、まずできません(笑)。
じゃあ、どうするか。これは広告代理店の方にアドバイスをいただいたのですが、結局は聞いた方がいいです。『先日来ていただいた時の状況もお顔もすべて覚えているのですが、お名前だけ思い出せないです。申し訳ありません』と、正直に言う。それで緊張感がほぐれ、雰囲気も柔らかくなる。
とはいえ、そういうことがないように工夫しています。特に初めてのお客さんがいらっしゃると、店が終わった後、メモ帳にひたすら特徴を書き綴っています。『ヒゲがこんな感じで生えていて、こんなものを飲んで、こんな女性と一緒に来て…』という感じですね。もちろん、領収証の名前も書き記しておきます。そして次に来店して下さった時に覚えていれば、喜んでいただけます」
大事なのは、人と人の関係性を巧みに把握することだ。
「僕はレコード店出身ですから、マナーや業界人のルールのようなものは最初、ぜんぜんわかりませんでした。その点、例えば広告代理店の方の対応の仕方などは非常に勉強になりました。
世界中どこでも、飲食店の会計は一番年上の男性に持っていくことが原則です。しかしビジネスの間柄ですと、必ずしもそうではない時があります。例えば年配のちょっと偉そうな男性二人と、女性一人が来ていたとします。それが男性の作家さん二人と女性編集者だとすれば、作家さんの所に会計を持って行ったら、怒られますよね。また女性5人と男性1人の場合、例え男性が若くてもその方の所に会計を持っていきます。僕らはいつも『この人が払うだろう』ということを、一瞬で判断しなければなりません。
関係性を瞬時に把握する。それは、バーテンダーにとって本当に大切なことです。カップルの男性が女性を酔わせたがっていると思ったら、女性にワインをお勧めしてあげて、いい感じに酔わせてあげる。そうすれば、きっとその男性は喜んで、再び来て下さりますよね。そういったことの積み重ねなんですよ」
客数の、いわゆる『分母』が多くなるほど、飲食店は経営しやすくなり、安定していくといわれている。
「『bar bossaって行ったことある!』『この店、雑誌で見た!』『あっ、ここ気になっていたんだよね』というように、知っている人、来たことのある人が増えるほど、店は定番化していきます。多くの人の記憶の片隅にあることで、思い出してくれる人の『分母』が増える。それにより、一定の人気を保ち続けやすくなります。
そして、もう一つ。バーならではの『つぶれない条件』があります。それは『いつ行っても同じ雰囲気で、同じものが出て、同じ人がいる』こと。ウチはボサノヴァが必ずかかっていて、ワインを飲むことができ、同じバーテンダーがいる。この3つを、ずっと守ってきました。この店が続いてきた理由の一つに『変わらないことの安心感』は確実にあると思います」
とはいえ、時代に合わせて変えたこともたくさんある。
「東日本大震災後、朝まで飲む方が明らかに減った。そこで営業を6時から12時までに変え、フードを増やしたりしました。震災は明らかに、人のライフスタイルや人同士の関係性を変えましたよね。また、今はクルマで来る方のために、ノンアルコールカクテルを増やしたり。変わっていないように見えて、実はいろいろと考えてきました。
店とは不思議なもので、必ずお客様が来なくなる時期があります。ここが実は大事で、この時期に新しいアイデアを考え、新しい人を呼び込もうとすることで、新たな店へと再生していくきっかけになる。この時期を乗り越えることが、店をやっていくことの醍醐味であるともいえます」
実は20年続いた現在も、今後に向けて心配なことは山ほどある。
「今の客層は30代~40代の男女で、20代がぜんぜん来なくなってしまった。今の時代は、若い人がお酒をぜんぜん飲まない。
ですから課題は、どうやって若い人を取り込むか。彼らにボサノヴァのよさ、レコードのよさ、ワインのよさをどう伝えていくか。それが、今後の大きな課題になってくるでしょうね。」
大都市・東京の渋谷という街の片隅に店を構え、約20年。変わらないことと変えるべきこと。そのバランスを巧みに取りながら、林さんは今日もbar bossaで楽しそうに酔うお客さん達を、温かく見守り続ける。
(終わり)
bar bossa(バールボッサ)店主。1969年徳島県出身。18歳で上京し、20歳で中古レコード店に勤務。その後ブラジル料理店とショットバーを経て’97年、bar bossaをオープン。’01年にはネット上にBOSSA RECORDSを立ち上げ、CDライナーへの執筆も多数手がける。著書に『バーのマスターはなぜネクタイをしているのか? 僕が渋谷でワインバーを続けられた理由』(DU BOOKS)。電子メディアcakesに連載中のコラムをまとめた『ワイングラスの向こう側』(角川書店)。
※ 会社、役職、年齢など、記事内容は全て取材時のものです