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京都のいいものを世界へ。そして、世界の人を京都に
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京都のいいものを世界へ。そして、世界の人を京都に
島田さんの「今」を形作ったのはまぎれもなく、スポーツ総合誌「Number」編集部に在籍した10年間だった。
「イチロー選手や工藤公康さん、伊達公子さん…さまざまな方から、素晴らしいお話をうかがうことができました。メディアの仕事のよさは、取材という名目で総理大臣からホームレスまで、世界中のあらゆる人に会いに行けること。その人脈を将来に活かすことができるということ。それはもちろん、アスリートに限ったことではありません。
僕はいつも、出会った人それぞれの『いいとこ取り』をしようと考えます。『この人のエッセンスはこういうことだ』気づくと、それをちょっと真似てみる。どんな人にも、必ずその人なりの『面白ポイント』があり、その人が今していることには、何らかの理由があったりする。僕は、それを突き詰めたい。今、この人がこうしている。そこに至るきっかけ、転換点は何だったのか。そういうことを、他の人より少し余分に掘り下げることが好きなんですよね」
スポーツ誌の編集者から、地域活性プロデューサーへのドラスティックな転身。そのきっかけは何だったのか。Numberに在籍した10年間では、海外に出かける機会が数多くあった。そんな中で、出身地である京都という街に、もう一度目線を向けてみようと思った。
「もともとは、生まれ育った京都が大嫌いでした。うちは、着物に家紋を手描きする紋章工芸職人の家庭。考え方が古臭くて閉鎖的で門限もあって・・・それが嫌で、高校を卒業すると東京へ。でも人生って不思議なもので、京都から離れるほど、逆に京都のことを思い出させるシチュエーションが生まれてくる。例えばスポーツの取材で海外へ行き、いろいろな人と接する時、出身地は京都だと話すと、皆さんの反応がすごくいいわけです。
当時僕は京都を飛び出し東京、世界へと、『外へ外へ』と、さまざまな土地に意識を向けながら動いていました。でも、ある1~2年の時期に、自分の中にもう一つの流れが来ていることを予感させる出来事が、いろいろとあったのです。
例えば、中田英寿さんがいたイタリアのペルージャでの話。スタジアムで現地の方に京都出身だと話すと『京都には世界遺産が17個もあるでしょう?』と返答されました。でも、僕はそれを知らなかったのです。この時は、自分の無知が恥ずかしいと感じました。
そういったことがきっかけで、僕の目は次第に京都に向いていきました。『外へ意識を向けるのもいいけれど、ちょっと地元を見直してみろよ、京都って外の人にとっては魅力的な街かもしれないぞ』と言われているような気がしてきたのです」
京都に目を向け、実際に何度か帰京してみた。すると、さまざまな現実が見えてきた。
「まず見えたのは、伝統産業の衰退でした。同級生や同年代の人達が掲げる老舗の看板で、歴史こそ長いけれどまるで現代にマッチしていないものがたくさんあった。それを再生するためのアイデアがほしい、という相談をたびたび受けるようになりました。そして、決して狙ったわけではないのですが、アイデアを出していくうちに、そろそろ次のステップに進むべきだと思い始めました。
雑誌という限定されたフィールドではなく、もう少し広い領域で動いてみたい。それまで各国に出かけて築いてきた、世界的なデザイナーや投資家、資本家などの人脈。それを生かして、新しいことをやっていきたい。そう考えるようになりました。僕のキャリアはNumber時代が前半。そして今は後半に入り、約15年が経ったところ。前半で作った幅広い人脈や知識。それを生かしていくフェーズに、今はいると思っています」
2001年に会社を辞めてからCLIPを立ち上げるまで、数年の準備期間を置いた。編集者時代に築いた海外サッカーの知識を生かし、BS放送のカード編成やプロモーションなどを手がけつつ、現在の方向性へと徐々にギアチェンジしていった。
「その間に、いろいろなことを考えましたね。自分のやりたいことは『京都のいいものを世界に。世界の人を京都に』。Numberの次のフェーズでは、生まれ育った京都のいいものを世界に発信し、世界中の人を京都に呼ぶためのお手伝いをしたい。それは決めていたのですが、どうやってビジネスとして組み立てていくかは、ちょっと練り込みが必要だと思っていました。その間で京都に帰る回数をどんどん増やし、もう一度、人脈を作り上げていきました。
京都へ帰れば、伝統産業に携わっている同級生達からは、相変わらずいろいろな相談事が舞い込んきました。彼らはいいものを作っているけれど、その魅力を伝え切れていない。そして、自分達が外からどう見られているのか、外の人が何を求めているのかが、今一つわかっていなかった。そこで外の目線から『こんなものをほしがっているよ』『こんな風にしてもらえると心地いいよ』『こんなものがあれば売り上げが2倍になるよ』といったアイデアを、今までの知識と経験の中から出していきました。そして、これをコンサルティングという形でビジネスに変えていこう、と思うようになりました。
固定観念を捨て去って、いいものを作る技術をもっと他の用途に転用できれば、伝統産業はまだまだ生き残れる。例えば、京友禅のアロハシャツ。友禅の染色技術はそのままに、アウトプット先をアロハシャツに変える。そういった、ちょっとした発想の転換が大切なのだとわかりました」
そのために必要なのはやはり、真摯なユーザー目線。そのベースには、島田さんのこれまでの豊富な経験がある。
「京都に限らずですが、地域でモノを作って売る人はそれに情熱を注ぐ分、自分の製作物を外から見る機会がほとんどない。その点、僕はいったん東京そして世界に出て、いろいろなものを見てきた。だからこそ、さまざまなアイデアと説得力が生まれる。京都でモノ作りをしている方々は、京都から出た経験のない人がほとんど。そういった人達にさまざまな情報を丁寧にお伝えして、ビジネスに結びつけていく。僕がCLIPを立ち上げてやっているのは、要はそういうことです。
それをよく考えてみると、京都のこういった課題は結局、日本の地域の課題であり、日本そのものの課題なのです。京都はもともと都ですから、環境問題や産業の変化、人々の食の嗜好、といったさまざまな先進事例を内包する街です。つまり今、京都で起こっていることは今後あらゆる地域で起こっていくし、それが、日本という国のあり方にもつながっていくのだと思います」
次回Part.3では、島田さんの手がけた京都市動物公園のコンセプト、そして自身の情報収集における「旅」の大切さなどについて、お話をうかがっていく。
1964年京都府出身。着物に家紋を手描きする紋章工芸職人の家庭に育つ。大学卒業後は日経BP社を経て、文藝春秋のスポーツ総合誌『Number』編集部に10年間在籍。多くのアスリートの取材を行う。
2005年に「京都、日本のモノ、コト、文化を世界に、世界の人を日本、京都に」をキーワードに、ヒト、モノ、コト、文化をコラボレーションしブランディングする企画会社、株式会社クリップを設立。伝統とモダンをキーワードに、京友禅×アロハシャツpagongなどのユニークなコラボ商品の他、「伊右衛門サロン京都」、デザインホテル「The Screen」、「尾道新開Bishokuプロジェクト」や京都市動物園のリノベーションなど、多数のプロジェクトを手がける。
※ 会社、役職、年齢など、記事内容は全て取材時のものです