3
沿線どこにでも店がある。それじゃ、ディスクユニオンじゃない
ディスクユニオンの掲げる"ディープ"オーシャン戦略を語る上で欠かせない要素が、広畑さんのこれまでのキャリアだろう。もともとはソニー出身。在職時代は一貫して新規事業を手がけてきた。ディスクユニオンの新しい展開を考えていくバックボーンには、その経験がある。
「入社は'87年。ちょうどソニーのベータマックスがVHSに負けてすぐのころで、ビデオカメラで巻き返そうと奮闘していていました。最初に配属されたのが8ミリビデオの営業部で、全国のソニーショップの人達と一緒に一般家庭に訪問し、直接ビデオカメラの営業に出かけました。当時はそれを訪撮(訪問撮影)と称し、『こういうビデオカメラが出ましたので、ちょっと紹介していいですか、と言って撮影をして、『こんな感じで写ります。ぜひ買って下さい』と1日3~4軒、朝から晩まで回るんです。当時のソニーはそんなこともしていたんですね。
そんな仕事を2年ほど経験した後に手がけたのが、全国に3000軒あったソニーショップの次世代のショップモデルの立ち上げでした。ソニー製品と、アウトドア用品やビデオレンタルなどを組み合わせた複合ショップを全国に数十店舗作っていきました。結果的には大失敗でしたが(笑)」
その後、プレイステーション準備室、ソニーコンピュータエンターテイメントを経て'95年、30歳でディスクユニオンに入社。そして2002年、父親の後を継いで、三代目の代表取締役社長に就任する。
「ソニーでは一貫して、ゼロからの立ち上げばかり手がけてきました。そのせいかディスクユニオンでも、いつも新しいことをやっていないと面白くない(笑)。でもそのおかげで、上手くいく、いかないの見定めが、ある程度きっちりした精度でできるようになった気がしています。」
社長就任後に行った改革の一つが、店舗の都心への集約。戦前に御茶ノ水で創業し、'80年代から郊外へと出店。多店舗化を進めていたが、都心中心に再シフト。その考えの背景には何があったのだろうか。
「以前は郊外7割、都心3割というバランスでしたが、これを変えていきました。今は山手線の内側に6割、それ以外が4割といったところで、新宿には14店舗あります。
郊外での多店舗化の背景は、もともと'80年代に、小売店がこぞってロードサイドに出て行ったこと。ベースにあったのは、これからは日本もアメリカと同じ車社会になる、という考え。要は、それぞれの地域のお客様の利便性を狙ったわけですね。
でも、それは量販店のやり方だった。あのころは弊社も右へ倣えでそのような郊外展開をしたようですが、当社のようなマニアックな専門店のすべきこととは違うということで徐々に都心中心に舵を切ってきました。結局、郊外の店舗に集まるお客様は、その地域に住んでいる方がメイン。マニアの方々に当店へ来店いただくために、そこまで足を運んでいただくのもどうかと思いました。そういった方々は例えば新宿とか渋谷のように、ライブハウスや音楽に関するカルチャーのある場所の方が集まりやすいし、出かけて行くときのワクワク感もあるだろうと思ったんですよね」
顧客の住む近所にショップがあることが、必ずしも彼らにとってベストなことではない。電車で30分でもかけて乗ってくるような価値のあるお店を作る方が、彼らは集まってきやすい。その判断が、店舗の都市部への集約を進めた根底にある。
「例えば、エルメスのようなハイブランドのショップが郊外などに多店舗であったらどう思いますか? 『エルメスの商品は全国の各所でお求めやすくなりました!』と言ったら…それ、ちょっと違いますよね(笑)。
郊外店でも立地を選定して出店していけば、当社も一定の利益も出せる自信はあります。でも、じゃあこれからも郊外にどんどん出続けて行くの? といったら、違うのかなと。だって、鉄道沿線どこの駅前にも店舗があったとしたら、それはもうディスクユニオンとは言えなくなってしまう(笑)」
そんな考えのもと、ディスクユニオンはブランドイメージを整備。なるべく都心部にそれぞれ違う品揃えの専門店を増やすことで、これまで持っていた「とがったイメージ」を守りながら個々の音楽ジャンルを深耕する道を選んだ。
「専門店についての考え方は"プッシュ"じゃなくて"プル"です。そしてわれわれの場合、都心にあっても、例えば1階の好立地は家賃が高くて手が出せません。でも、雑居ビルの2階3階でも、それだけの価値のある商品を並べたら、お客様には十分来ていただける。ユニオンがこれだけいいものを集めているから、じゃあそこまで行くか! というノリで。だから、生命線は立地よりも商品力。そして商品と顧客をつなぐのが、スタッフ。彼らの商品知識・情熱・行動力が商品力を下支えしている。だから重要なのは、いかにスタッフに育ってもらうか、ということなんです。」