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日本人のよさを適正にマーケティングして世界に伝え、外貨を得る
Minimalを始めたことの背景には、かねてから心に抱いていた問題意識がある。山下さんはかつて経営コンサルタントだったころから、30歳で起業することを考えていた。
「会社員時代のキャリアの後半で、エクセレントカンパニーの組織改革に携わっていました。当時の仕事はすごく面白くて、たびたびテーマになったのがグローバル人材の育成。僕自身、偉そうに(笑)『グローバルな人材とはこういうものです』といったことをよくお話していました。
そんな仕事をしているうちに、自分の中に生まれてきた疑問。それが『グローバリゼーションって何だろう』ということでした。世界で進むオープン・イノベーション。でも日本は、いつまで経っても島国で鎖国的。そんな状況の中『グローバリゼーションって何なんだろう?』『資源のない日本のアイデンティティって何だろう?』と考えるようになりました」
山下さんは学生時代、バックパッカーとしてトータル50カ国を放浪。アフリカ以外、すべての大陸に足を踏み入れた。その中で考えても、一番住みやすいのはやはり、日本だった。
「例えば僕の出身地・岐阜はじわじわと過疎化が進んでいます。でも、みんなそれにあまり気づいていません。僕が住んでいたのは美濃和紙を使ったうちわ作りの盛んな下町で、子供のころは隣にうちわを作る職人さんが住んでいたり、ねじの工場や問屋などがありました。しかし大人になっていくにつれ、それらは少なくなっていきました。
僕の周りにいた職人さんは昔から寡黙だけど、モノづくりに対する姿勢はとても真摯。実際に触れてみると、すごくいいものを作っている。でも、そういうものが今、どんどん減っている。
そんな状況の中『資源のないこの国において誇れるものは何だろう?』と考えると、やはり人なんです。そして、そこからもう一つブレイクダウンして、日本の資源になるのは『人の心のきめ細やかさ』だと思った。それがサービス側に表れれば、ホスピタリティやおもてなし。伝統産業に表れれば、例えば輪島塗のような優れた工芸品。工業に表れれば、日本製の自動車などになる。そういった、日本人特有のきめ細やかさ。それがこの先、日本人にしかできないサービスやビジネスとして、しっかりと外貨が取れるものになっていくだろう、と思いました」
日本人ならではのきめ細やかさを適正な形でマーケティングして、世界に伝えて外貨を得て、お金が還元される。そんな仕組みを作りたいと考えた時、山下さんの頭に浮かんだ業態が製造小売りだった。
「ウチもそうなのですが、職人はみんな不器用でぶっきらぼうな人が多い。好きなことだけを追求したい、と考えるタイプです。だから僕はそんな人達と同じ目線に立ち、いいものを作れる環境を整える。その一方でマーケットが求めているものを汲み上げ、職人が作るものに微調整を加え、世の中にアウトプットしていく。そんな橋渡し役になりたい、と思うようになりました」
ビーントゥバーを売っていこうと考えたきっかけが現在、Minimalでともに働く朝日将人さんとの出会いだった。約2年前に朝日さんが作るビーントゥバーチョコレートを食べる機会があり、感銘を受けた。
「あれはまだ会社を辞める前のことでした。彼が作るチョコレートを食べた時、直感的に大きな可能性を感じました。僕の知っている普通のチョコレートと、そこにあったものはあまりにもかけ離れていた。混ぜて味をつくるのでなく、素材そのもので味を表現する。これは間違いなく新しい文化になる、と思いました。
僕はもともとコーヒーやワインが大好きなんです。何が好きかというと、素材のよさと作り手のストーリーがマッチングされて提供されること。その点、ビーントゥバーチョコレートは絶対にイケると確信を得ました。そして調べてみると、日本で手がけている人はまだ少ない。これだ! と思いましたね」
まずは、仲間を募った。朝日さんに加え、かねてから一緒に仕事をしたいと思っていた大学時代の同級生二人を迎える。そして次は、資金集め。
「もちろん金融機関からの融資も受けましたが、当時持っていた少ない貯金に加え、ぜいたくは全部ストップ。学生が住むような小さなアパートに引っ越して家賃を節約し、車を売ってキャッシュを確保。そして人と資金を集めたら、ビジネスプランを練っていきました。要は、コンセプトメイクですね。ターゲットをどこに置き、どのようにビジネスを展開していけば、僕らの思いを伝えることができるのか。それをひたすら考えました」
次回は、引き続き山下さんがMinimalを立ち上げるまでの苦労を語っていただくとともに、愛されるブランドが生まれるために必要な要素について、話をうかがっていく。